October 2011
October 21, 2011
October 02, 2011
2拍子な人々
インドに出張することが増えた
ドバイ駐在の頃からインド企業と協働することは多かったが、UK、フランス、トルコ他、協働企業の中のひとつとしてインドがあっただけで、どっぷりインド企業と仕事をするのは実質初めてである
海外企業との協働についてだが、何れの地での企業協働であっても、その地の人々、文化との密な接触、場合によりぶつかり合いの上にしか、事が成り立たないのが現実だと思う
先日来、当方会社の独善的な方針転換に対し、合弁相手企業から強い抵抗、抗議があり、実際に相手と事を進める私たちは胃の痛みが絶えない状況にある
公平に眺めれば、当社価値観が社外に比較し田舎臭いだけなのであるが、単一価値に基づこうとする視野には相手の事業姿勢や価値観差異は映る由も無い
井戸の中から外海の波の高さを知ることなど所詮無理な事なのかも知れない
民族音楽ビート思考*********
ドバイでも痛感したが、インド〜中東の文化には共通要素が多い
痛切に感じる点は事の判断に際し、常に直感を重視する事だ
我々は事の起承転結に学び、それを演繹的思考に反映しながら、次段階に対処しようとする傾向がある
インド企業と仕事をしていて感じるのは、(これは中国にも通じるかも知れないが・・)事の判断に於いて彼らは常に判断の速さ、即断に美徳を感じていることだ
しかし、その場その場で下した個々判断の一貫性や、それらの次工程への派生影響は配慮しない傾向が根強くある点は全く理解に苦しむ
彼らは状況や課題に対し、常に最短距離での解決をすばやく出そうとする
複数課題や環境条件が錯綜する中で、彼らが一つの課題毎に出した対策が、関連事項にマイナスに働き、結果として悪影響となることが多いのは、この相対観の無さに起因していると感じている
この「個々課題にすぐに答えを出そうとする習慣」はどこから来るのか?
私は彼らが嗜好する音楽や文化体系との連鎖を感じている
一昨日出張で滞在していたムンバイのホテルで、駐在の日々を思い出しながら、以前から漠然と感じていた音楽と民族性について反芻していた
民俗音楽論でもなんでもなく、純粋に「音楽を聴いて感じること」は以下の通りだ
欧米での音楽は4拍子に基づくものが多いが、インドから中東、特にアラビア地域の音楽は2拍子が主体である
勿論インドの伝統的民族音楽には29ビートなんてとんでもないグルーヴが存在するが、最近のインディアンポップシーンはことごとく違い、ダンサブルな2ビートが主体となっている
4拍子の音楽では1、2、3と続く高揚感を4拍子目(4小節目)で帰結してゆく小さな構成が幾つも組み上げられ、それらが更に大きくつながりあって音楽全体が形作られている
一般に言われる「回転コード」に代表されるカデンツ(ケイデンツ、カデンツァ)が最も理解しやすい例であると思う
ブルーズを聴けばすぐに理解できると思うが、西洋音楽の盛り上がりには段階的に発展、展開、帰結する構成がはっきり表れている
これは特にソロをとる時の歌いに顕著に現れると思う
1(事のスタート)、2(発展)、3(転換)、4(帰結)という「回転」の中では1ビート毎に事の進展を体感するが、反して2拍子の音楽展開では、発展や転換の段階が無く、事のスタートからすぐに帰結を迎える感覚がある
話はみょうちくりんなこじつけのほうが面白いので、それを、問題把握、解析、対策立案、解決実施といったQC的フローに重ねてみると、インドで私たちが経験する、対症療法的問題解決活動が皮肉にも体感として理解できてくる
彼らの文化の中では常に速さが求められ、事を解析したり、関連との調整を配慮することは、まず議題にすら上がってこない事は、彼らの2拍子的な直感性重視と無縁でないと思えてならない
これを我々は思考に深みが無いと位置づけることも多いのだが、それぞれの音楽が各々のビート感覚でこそ成り立つのと同じく、彼らの思考も、我々の思考も、各々の長所短所を抱えながら独自に成り立っていることには違いないとも感じている
これは現段階では幾分ペシミスティックな妥協でしかないのだが・・・
更なる沸々・・・
中東では車と歩行者の関係も違う
幹線道路は論外であるが、仮に市街地で歩行者が悠然と道路を横断していれば、車はその歩行者の手前まででスピードを落とし、歩行者を優先する
これはごく自然な日常に思える
しかし、歩行者が少しでも早足で車を避ける動きでも見せようものなら、車は加速し歩行者にどけと言わんがばかりに突進してくる
この経験をされた方も多いと思うが、海外との折衝に於いて感覚の違いは、日常いたるところに存在している
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